創部 1971年
初代顧問 須賀 寅三(すが ともみつ) 先生、 春田 先生
1983年より 主顧問 田中 稔 先生、 井上 先生
1992年より 主顧問 上田 聖司 (30期)、 橋本澄子 先生
申し訳ありません。この間不明です。
2015年より 主顧問 片山 紀明 先生 (26期)
2016年より 主顧問 谷山 先生
現在に至る
現部員数 60名くらいかな
創部当初の社会情勢
1960年代から70年にかけて、若者音楽に大きな変化が起こりました。
日劇ウェスタンカーニバルからグループサウンズの流れの中で、日本国中に
巻き起こったロック音楽の流れです。それはビートルズ来日で、若者音楽を
特徴づける大きなうねりとなります。
他方はベトナム 戦争反対、安保条約反対など平和運動や貧困層問題など
社会批判に結びついた 若者のメッセージを発信するためのツールとしての
フォークソングでした。
そんな中で、布施高の27期生を中心に軽音楽部が結成されます。初代顧問が
中心となる生徒に声をかけて、当時はめずらしかった校外合宿を敢行するなど
活動の安定化に尽力されました。
「合宿の時はじめて『翼をください』という曲の楽譜を渡されて、この合宿中に
完成させるんだ」と言われたのを覚えています。」という当時の部員もいます。
27期の軽音楽同好会から現在も音楽を職業として いるものを輩出していますし、歌声を買われてラジオ番組にレギュラー主演をした 卒業生もいます。
高度成長のまっただなかにあった大人から見れば、「なんだそりゃ」の世界であった
でしょう。また、浅間山荘事件など左翼過激学生運動と混同し、若者音楽自体を偏見
の目で見る大人もいました。
軽音楽同好会からLMC,AMCの時代、再び統合へ
メディアによるサブカルチャーの伝搬、若者文化の台頭が起こります。フォーク系については、北山修、はしだのりひこら京都の学生が中心となって結成されたフォーククル セダーズ が「帰ってきたヨッパライ」という画期的な曲を作ります。また、アメリカでは、 Simon and Garfunkelの グラミー賞受賞によりより洗練されたアコースティックデュオ が脚光を浴びます。
70年はじめのイベントとして、特筆すべきものがありました。岐阜の中津川というところで 開催された中津川フォークジャンボリー*1です。このイベントが日本における屋外での大規 模コンサートのはじまりと言ってもいいと思います。また、それまであちこちで活動 してきたフォーク系のミュージシャンたちが一同に会したコンサートであったということです。
不幸にもこのコンサートは3回で終了してしまいますが、大阪の春一番コンサートや京都円山 野外音楽堂での宵々山コンサートに影響を与えていることは明白でしょう。
*1) 中津川フォークジャンボリーは2009年に再開されています。参考URL http://sakae.keizai.biz/column/8/
布施高校の軽音楽同好会もその人数を増やしていきます。60人以上の会員を数えましたが、 部員の中でも音楽的指向の違いがあり、LMC(Light Music Club)とAMC(Acoustic Music Club)の ふたつに分割して運営するという方法をとらざるを得なくなりました。当初アコースティク系のAMCが活動が安定していたようですが、やがて、AMCは多様な 楽器を取り入れたニューミュージックの興隆とともに部員数が激減し、再び、軽音楽同好会として統合されます。
同好会から部へ
同好会のままの運営では予算もなく活動にも制限がかかる一方で、制限の少ない中でのんびりやりたいという二つの意見が存在し、なかなか先に進みません。しかし、80年代に入り、もっときちんと活動をしたいという意見をもった部員が、そうでない部員と議論のすえ、とうとう部へと 昇格をします。学校からの予算も配当されて活動が活発化していきます。
軽音楽連加盟へ
部の活動場所は相変わらず教室でした。近所からの苦情で暑い日も閉めきって活動
をしなくてはならない時もありました。コンサートは校内で数回程度の内容で変化もあり ませんでしたが、やがて大阪府軽音楽連盟に加盟して活動をするようになります。
当時は、まだそんなにたくさんのイベントがありませんでしたが、連盟主催スプリングフェスの 参加も果たしています。また、小豆島への合宿も実施しました。年末のテレビ番組に 出演するために元日に東京までいったバンドもありました。このころ、音楽的にすぐれた 生徒が何人かいました。音楽大学に進学し、現在ではクラシックの歌手をしている生徒 や当時三木楽器のボーカルコンテストで一位を取った子もいました。また、PA関連で ニューヨークへ留学した生徒がいたりしました。
やがて、合宿も顧問の事情から実施できなくなり、強化練習と称して、今はなき森ノ宮 青少年会館のスタジオを借りて強化練習をしました。保護者の方でプロミュージシャン の方を招いて指導をしていただいたこともありました。
この時期に、屋外でコンサートをするために木製の大きな舞台を作成しました。すべて 軽音の生徒たちが、体育祭で培ったデコレ作成の技術を用いて行いました。重量のある ものですが、その後も長く使用されていたようです。
視聴覚教室、文化会館時代へ
顧問の交代から連盟加盟更新もされなくなりましたが、それでも部員数が爆発的に増え ました。練習場所についても各種講習の都合から視聴覚教室となり、機材保管も文化会館となります。
この30年にわたる高校生の軽音楽活動の成果は府内的にも全国的にも目に見えて広がりを 見せています。それまで、吹奏楽、演劇、美術といった伝統的な文化系クラブの団体 であった都道府県の芸術文化連盟(いわゆる芸文連)に軽音楽部門ができています。大阪芸文連にも軽音楽部門があらたに加えられました。全国組織である全国高等学校文化連盟の 専門部には軽音楽というものがまだ存在しませんが、もし、専門部として設立されれば、東京の武道館で全国統一の大会が開催できるのも夢ではないでしょう。
東大阪の高校として
現在、東大阪市内の高校にはそれぞれ軽音楽やフォークソングのクラブがあります。
枚岡樟風、日新、布施北、布施高、みどり清朋、花園などの部を合わせると部員数は
200人くらいになるかもしれません。
このサイトの目的
そんな中で生まれた布施高校軽音楽部。その歴史像は断片的で部員たちは自分の
在籍した期間の中でしかその姿を知りません。また、上下のつながりもあまりなく
ここまできました。検索やネットという言葉が空気のごとく自然になってきた21世紀 にあって、「大阪府立布施高校軽音楽部」という語句で検索をかけても何も答える
サイトがないというのも変です。
そのような検索にもこたえるべく、また、今まで断片的にしかなかった布施高軽音楽部 に関す る情報を集めるためにも、このサイトを立ち上げることにしました。
サイト運営は、軽音楽同好会時代の同窓生が担当していますので、正しくは「布施軽音楽部同窓会」のページとなります。現在の布施高軽音楽部の活動内容を伝えるものではありません。
このサイトで使用している写真や軽音楽部の歴史について、不具合がありましたら
フォームで管理人まで連絡いただけるようにお願いします。
(参考文献 関川 誠 ed. ぼくらの時代大年表 1992 JICC出版局)